音楽とピアニズム(4)~鍵盤に張り付かないことの合理性~
エリックルサージュ氏は、常に音楽が自然に流れることを目指し、
手は決して止まらず常に流動していること、打鍵は鍵盤の近くで始めず空気を含ませるように手の平を開け放ってから打鍵すること、
を常に要求しました。
鍵盤を狙い、ミスタッチを恐れて鍵盤の上に留まることは決して許されず、
ミスタッチよりも、まず音楽の自然な流れが削がれるような動作に、厳しい目線が注がれていました。
彼が楽譜の上のディナーミクやアーティキュレーションの一つ一つを驚くべき感度で音にしていくのを目の当たりにしたことで、読譜の基礎は徹底的に叩き直されました。
それと同時に、大学の友人らが毎日のように繰り返したピアニズムの研究発表?のような練習室での密会でもまた、新鮮な驚きと発見の連続でした。
その友人のピアニズムこそがロシアンメソッドに源流を見る奏法であったのですが、
指を決して独立して動かさないこと、
脱力を意識しないこと、指を柔らかく使わず鍵盤を深く打鍵しないようにすること、
そして、今まで気にかけたことがなかったような、小さな体の変化に意識が向けられていました。
眉を上に上げる動作、視線、
親指の位置、指一本を動かす為の筋肉、など
といった、小さな動作の一つ一つの全てが、音や表現を知らず知らずのうちに変えていたことを知りました。
そして、
そうした体や意識への深い理解を頼りに、
演奏における、音楽やイマジネーションを邪魔するようなあらゆる「意識」を徹底的に排除していくのです。
そうすることで、ピアノから放たれる音の「音楽の純度」を上げ、ただの「ピアノの音」ではなく、音楽の代弁者としての音へと昇華させていくのです。
楽器と体の使い方のメカニズムを学び、それに注視しつづけながらも、純粋な音楽としてだけの音だけをそこに残すために、弾く感覚をなくしていく。
これこそは、ピアニストとして限りなく誠実な姿勢であり、
こうした経験を通して、「本物のテクニック」に出会えたような気がしました。
動きの合理性は、
決して間違えないとか、楽に弾くために求められるのではなく、
音と音が有機的な関わりをもって繋がりあい、音楽になるという目的の下に考察されていくのです。
私にとって、エリックルサージュ氏のフランス流のピアニズム、そしてロシアンメソッドに源流を見るような奏法、
こうした一つ一つのテクニックや訓練を実際自分の演奏に結びつけることは途方もなく難しいものでした。
しかし、学んだことを部分的に演奏に取り入れながら、その考え方や奏法を理解し消化するために、試行錯誤を繰り返すなかで、
徐々に「音楽の聞こえ方」が変わってきていることに気がつき始めたのです。
毎日のように聴いていた、ピアニストたちの演奏、好きな演奏家たちの演奏の凄さや魅力、
それまでただ感覚的に惹かれていた音楽表現が、
どのようにして成り立っているのか、どのような目的の元に為されているものなのか、が次第にハッキリと心で聞きとれるようになったのです。
それもピアノ演奏に限ったことではなく、
あらゆる演奏が伝えんとするものを、確実に、以前より多く受け取れるようになっている実感が芽生えたのです。
ことをキッカケにして、
「ピアニズム」の持つ無限の可能性を、本当の意味で実感していくようになったのです。
に続きます。
松岡優明
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