主観と客観

個人的な感情を表現するのが主観性だとすれば、
その一方で普遍的な真理や人間の感情を個人を越えた大きな視点から代弁するために必要なものが客観性です。

演奏者の一人一人はいつでも個人ですが、
聴く人々の感情に訴えかける方法は無限にあります。

音楽は説得力は個人的な悲しみや喜びの感情を個人のレベルを超えることができます。

人間離れした理性や知性が、

感情を伴って代弁されたときに、

音楽は圧倒的な美しさを纏い始めるのだと思います。

ベートーベンが自身の運命にただ悲観し、自分自身が悲劇のヒーローとなりただただ泣くことしかせず、

泣き続ける自分のみを愛していたならば、

今日私たちがあの人間離れした力強い精神を耳にできることはなかったのかもしれません。

音楽と共にある人生の中で、
自身の姿を反映する音楽とその表現に対し常に客観的な視点を持ち見つめることなく、

真に人の心を揺さぶるような「美しさ」をもたらすことはないと思います。

本当の美しさとは創造物の表面にはあらず、
常にその表現された物に宿された「精神」にあるのです。

私たちがロシアンメソッドを通して目指す、演奏者としての音楽の聴き方は、

その9割以上が客観性であると言えます。

演奏者が表現した音は、観客に受け取って貰えなければ「芸術」として成立することはありません。

そのためには、受け手に対するアプローチや実行に交じるあらゆる「ノイズ」を徹底的に排除していくことが必要です。

極端な例として、

たとえば歌手や俳優が舞台の上でひとりの人間として感情的になり、

涙を流し泣くことで声が出なくなったり、セリフや歌詞が飛んでしまってはどうでしょう。

幾らかの観客はそのシチュエーションやその背景に個人レベルで共感し感銘を受けることはあるかもしれません。

しかし、その表現されるべきものの形は崩れ、もはやその打ち震えるような激しい感情は「ノイズ」としか成り得ないのです。

表現者にとっても、勿論「感動」は必要です。

しかし、それを表現するときに個人的な感情や自分本位な自己陶酔に溺れることは、まったく不必要です。

もし、気が置けない友人や家族に聞かせるのなら、その形は何でも良いと思いますし、音は既に十分に美しいものだと思います。

しかし、音楽をより多くの人に届けたいと思う人が、

「より美しいもの」が自分の体から紡ぎ出す事を望むとしたらどうでしょう。

理性が感情を制することで、より深い感情を余すことなく音楽に代弁させ、

共感を得たり、人々の美しい心と触れ合うことが出来たような瞬間の喜びは、

演奏者にとっては計り知ることはできない程に感動的だと私は思います。

松岡音楽教室
松岡優明

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