音楽とピアニズム(1)~ピアノの上手さ~
私は幼少の頃から様々な物事において、決して器用な方ではありませんでした。
曲の進度も遅く、初めてショパンのエチュードを与えてもらったのは高校1年生の終わりの頃でした。
とりわけ、指が回らないことをしばしば指摘されてきたこともあり、弾きたい曲が弾けない、出したい音が出せない為に悔しい思いをした経験が多くありました。
様々なメソッドや資料に助けを求めながら、演奏技術の向上を目指し、10代の頃には、指の独立性や瞬発力を求めるトレーニングの研究や実施を積極的に行ったりもしていました。
演奏技術は弾きたい楽曲の求めるテクニックを研究しながらトレーニングやリハビリを積み、それなりの効果は得られてきたように思います。
粒立ちの良い音、快活な指周りと、強靭な手、重音、粒の揃ったアルペジオや音階、ミスのない演奏、といった表面的なテクニックに対するコンプレックスは強く、常にそうした完全な技術への憧れがありました。
それなくして、「美しい演奏」など存在しないのだ、と自分に言い聞かせており、
コンクール入賞や学内での成績をあげるためには、こうしたテクニックの向上こそが不可欠なのだ、と信じて疑いませんでした。
しかし、ある時にいつものように自分が演奏した録音を耳にしたときに、
明らかに足りない「何か」の存在を感じ、虚しさを覚えたことを忘れられません。
どうしても手に入れたかった「上手さ」への憧れと同時に、
音楽の本質は「上手さ」にはないことを実感しました。
ふと我にかえり、
「なぜ今ここでピアノを弾いているのか」
と自分に問いかけてたときに、
罪悪感と虚しさが押し寄せました。
自分は音楽を利用し、
誰かより上手くなって、そこで評価を得るために、演奏技術を磨いていたのではないか。
こうした盲目は、大好きなはずの音楽に対して感性を開くどころか、知らず知らずのうちに自分の音楽に対する心をどんどんと閉ざしていっていたのです。
「上手さ」にとらわれることで。
音楽は素敵です。
しかし、その道を志すのであれば、それは同時にとてつもなく厳しい世界でもあります。
どんなに頑張っても必ずしも評価されるわけでないどころか、一番ではない99パーセントの人が「落選」です。
コンクール入賞や、評価など、目に見える結果を得ることに躍起になっている人たちに言いたいことは、
「自分の評価は、最終的には自分がくださなければいけない。」
ということです。
私たち一人一人の存在は、唯一無二で、
たとえ自分が必死に頑張ってきたことに評価が伴わなかったとしても、
そのことで自分自身に「敗者」の烙印を押したり、そのことにより自分の本当の価値を見誤らないでいて欲しいと思います。
受験や就職活動も同じなのだと思います。
誰しも、輝ける場所が必ずどこかに用意されていて、
それは必ずしも自分が今求めるものの延長線上にあるとは限りませんが、
自分のありのまま存在を肯定し、真剣に向き合った人から順番にその椅子は与えられていくのだと思っています。
音楽において、「上手さ」といった、いわば偏差値のような「基準」だけを物差しに、子どもたちが自分に誤った「烙印」を押したり、音楽が彼らの自己評価を下げさせたりするようなことが、決してあってほしくないと思っています。
に続きます。
松岡音楽教室
松岡優明
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